杉田玄白と平賀源内――江戸時代に活躍したふたりには、意外と深い関係がありました。
『解体新書』で知られる蘭学者の玄白と、発明や芸術に才能を発揮した源内。ふたりはどこで出会い、どんな交流をしていたのでしょうか?
2025年の大河ドラマ『べらぼう』で注目される平賀源内。その人生をより深く知るためにも、杉田玄白との関係に注目してみましょう。
杉田玄白と平賀源内はどんな関係?
杉田玄白と平賀源内――江戸の学問界に名を残すこのふたり、じつは「友だちの紹介」で出会っていたって知ってましたか?
そのキューピッド役をつとめたのが、中川淳庵(なかがわじゅんあん)という蘭学者。玄白と一緒に『解体新書』の翻訳をしたことでも知られる人物です。淳庵は、源内の広い人脈のひとりでもあり、ふたりの紹介者として動いたのだとか。
当時の江戸では、西洋の学問=蘭学(オランダ経由の学問)に注目が集まっていました。玄白も源内も、新しい知識への好奇心がものすごく強かったので、話が合うのは当然だったかもしれませんね。
知識欲旺盛なふたりが出会えば、そりゃあ盛り上がります。出会ったその日から意気投合していたと伝えられています。
共通のハマりものは“西洋の最先端”!
ふたりが熱中していたのは、なんといっても「西洋の最新文化」。たとえば、当時長崎にあったオランダ商館から伝わる医学、科学、自然学などの書物は、どれもお宝レベルの貴重な情報源でした。
杉田玄白は、人体解剖の絵が載ったオランダ語の本に感動して、日本語に訳すプロジェクトをスタート。それが後の『解体新書』につながっていきます。
一方の平賀源内も、「エレキテル」という電気機械を修理して復元したり、物産会(今でいう博覧会)を開いたりと、西洋知識を活かして実験的なことにどんどん挑戦していました。
こんなふたりが集まったら、もう話題は尽きない。学者仲間というより、“知的探検の相棒”みたいな関係だったかもしれません。
玄白が惚れ込んだ「非常の人」源内
玄白は源内のことを、とにかくユニークで魅力的な人だと感じていたようです。
発想力、表現力、アイデアの豊かさ――すべてが常人離れしていた源内。ときには奇抜すぎてまわりから浮いてしまうこともあったようですが、玄白はそんな源内の“破天荒な魅力”に感心していた様子。
学問の道をまっすぐ進む玄白と、自由奔放に飛び回る源内。まるで真逆のように見えて、どこか補い合っていたのかもしれません。だからこそ、長く交流が続いたのでしょう。
ふたりの関係は、単なる学者同士のつながりを超えて、深い友情で結ばれていたことがうかがえます。
続いては、そんなふたりの「功績の違い」や、「それぞれが何を後世に残したか」を紹介していきます。
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杉田玄白と平賀源内、それぞれの功績と比較
出会いから友情が芽生えた杉田玄白と平賀源内。でもこの二人、ただ仲が良かっただけじゃありません。それぞれが日本の“未来”に影響を与えるような、とんでもない功績を残しているんです。分野は違えど、どちらも江戸時代の知的革命児。さっそく、その功績を見ていきましょう!
杉田玄白の功績|『解体新書』で日本の医学をアップデート
杉田玄白といえば、やっぱり『解体新書』。これはオランダの解剖学書『ターヘル・アナトミア』を日本語に訳した、日本初の本格的な人体図解の書物です。
『解体新書』(研医会図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100229666
時は18世紀。まだ日本では漢方医学が主流で、「体の中がどうなってるか」なんてほとんどブラックボックス状態ですよね。そんな時代に玄白は、長崎から入ってきたオランダ語の解剖図を見て「これはすごい!」と感動。なんと仲間たちとともに、辞書もほとんどない中でコツコツ翻訳し、『解体新書』を完成させました。
この本が出版されたことで、西洋医学の知識が日本に一気に広まり、やがて近代医学への扉が開かれます。江戸時代の終わりから明治維新、そして現代医療へとつながる、その最初の一歩を築いたのが、杉田玄白だったのです。
平賀源内の功績|エレキテルに込めた“未来のチカラ”
一方、平賀源内がワクワクしていたのは、「未来のテクノロジー」でした。彼の代表作といえば、やっぱり「エレキテル」。
これは静電気を起こす装置で、もともとはオランダ製の壊れたものを、源内が独自の工夫で修理し、復元しました。当時の日本人にとって、「電気」なんてほとんど未知の存在。でも源内はそれを公開してみせて、人々に「見えない力」の存在を実感させたのです。
でもそれだけじゃない。彼は鉱山開発、薬草の普及、物産展(今でいう万博的な展示会)など、とにかく新しいもの好き。アイデアをカタチにするスピードと行動力がハンパじゃなかった。
江戸時代の人々が「新しい技術」や「未知の知識」に触れるきっかけを作った、まさに“江戸のプロデューサー”とも言える存在です。
学問と技術、ふたりが残した“未来へのインパクト”
こうして見てみると、玄白は「学問の伝道師」、源内は「テクノロジーの先駆者」といった感じ。それぞれの専門は違えど、どちらも“今ある常識を疑い、新しい世界を広げよう”とした姿勢は共通しています。
そして何よりも面白いのは、ふたりとも“ただの研究者”では終わらなかったこと。玄白は自分の知識を社会に広め、源内は未来を見据えて技術を動かした。静かに積み上げる玄白と、派手に突っ走る源内――まるで対照的なようでいて、同じ時代に、同じ志を持っていたのです。
彼らがいたからこそ、江戸の知の世界はこんなにも面白く、奥深くなったのかもしれません。
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平賀源内の最期と杉田玄白の深い友情
時代の最先端を駆け抜けた天才・平賀源内。しかし、その人生は華やかなだけでは終わりませんでした。
晩年、彼を待ち受けていたのは、まさかの事件と牢獄、そして哀しい最期――。
そしてその死を、深く胸に刻んだ人物がいました。杉田玄白です。
エレキテルの発明者、まさかの“獄中死”
1779年、源内はある仕事でトラブルを起こします。
それは、ある大名屋敷の修繕工事に関わっていたときのこと。設計に関わっていた大工・秋田屋九五郎が、自分のアイデアを盗もうとしている――そう思い込んだ源内は激昂。口論の末、彼を棒で殴り、大怪我を負わせてしまったのです。
源内はすぐに捕まり、小伝馬町の牢屋敷へ。
しかし、当時の牢は過酷な環境で、食事も衛生もままならない状態。精神的にも肉体的にも衰弱していた源内は、獄中で破傷風を発症し、そのまま命を落としてしまいます。享年52歳。
電気を操った男が、まさか電灯もない獄中で最期を迎えるとは――まさに皮肉というしかありません。
杉田玄白、親友のために私財で墓を建てる
この突然の死を、誰よりも深く悼んだのが杉田玄白でした。
玄白は源内の死後、動き出します。自らのポケットマネーで、源内の墓を浅草の総泉寺に建立したのです。
しかもその墓碑に、玄白はただならぬ想いを込めた言葉を刻みました。
「嗟(ああ)非常ノ人、非常ノ事ヲ好ミ、行ヒ是レ非常、何ゾ非常ニ死スルヤ」
これは現代語に訳すと、「ああ、常人ではない人が、常人ではないことを好み、常人ではない行動をする。ならば、常人ではない死を迎えるのも当然なのか――」という意味。
まるで、源内の生き様をそのまま象徴するような追悼の言葉ですね。
玄白は、源内が奇抜で時に破天荒な存在であったことを誰よりも理解していた。そして、誰もがその死を“破滅”と見る中で、彼だけはそれを“らしい最期”と受け止めたのですね。
「非常ノ人」――杉田玄白が見た天才・源内
杉田玄白が語った「非常ノ人」という表現には、ある種のリスペクトがにじんでいます。
当時、源内のような自由すぎる発想や行動は、しばしば社会に受け入れられませんでした。浮き沈みも激しく、敵も多かったことでしょう。でも、玄白はそんな源内のすべて――独自の視点、ぶっ飛んだアイデア、時代の一歩先を行く野心――を理解し、友として寄り添っていました。
「世間がなんと言おうと、あいつはすごいやつだった」
そんな玄白のまなざしが、墓碑の言葉には込められているように思えてなりません。
才能ある者が、必ずしも幸せな最期を迎えるとは限らない――。でも、その生き様を誰かが見届け、記録し、語り継いでくれる限り、命はそこで終わりではないのかもしれません。
玄白と源内の間には、単なる友情を超えた「信頼」と「尊敬」があった。それが、江戸の時代を越えて、今も私たちに語りかけてくるようですね。
以上、今回は杉田玄白と平賀源内の関係についてご紹介しました。
西洋医学を日本に広めた杉田玄白と、発明や文化で時代を先取りした平賀源内。ふたりは好奇心と知識でつながった、まさに“江戸の知のバディ”でした。そして、源内の波乱の最期を見届けたのも玄白――その深い友情と敬意が、今も語り継がれています。
2025年の大河ドラマ『べらぼう』では、平賀源内の生涯が描かれます。玄白との交流や、彼をどう見つめていたのかも今後描かれるかもしれないので、楽しみにしておきましょう。
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