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平賀源内の最期とは?死因は破傷風?殺人事件の真相も探る

2025年のNHK大河ドラマ 「べらぼう」 で、天才発明家・平賀源内 が登場し、話題を集めていますね。

平賀源内は「エレキテル」や本草学の発展に貢献し、日本の科学・文化に大きな足跡を残した人物。

しかし、その最期は驚くほど波乱に満ちたものでした。

 なぜ平賀源内は牢獄で命を落とすことになったのか?
 死因は破傷風?それとも…?
 平賀源内が起こした殺人事件の真相とは?

この記事では、平賀源内の最期について 史実に基づいて詳しく解説 していきます。

ドラマをきっかけに平賀源内の人生に興味を持った方も、ぜひ読んでみてください!

 

平賀源内の波乱の最期とは?

平賀源内

平賀源内(1728年生まれ)は、江戸時代中期の発明家・本草学者・戯作者として活躍しました。平賀源内の代表的な業績には、「エレキテル(静電気発生装置)」の復元、物産学の発展、さらには戯作や浄瑠璃の執筆など、多岐にわたる分野での功績があります。

しかし、平賀源内の生涯は決して順風満帆ではなく、幕府からの庇護を受けることなく独自の道を歩み、晩年は苦境に陥ります。そして1779年、源内の人生は思いがけない事件によって幕を閉じることとなりました。

波乱の死を迎えた源内、その背景とは?

平賀源内は 安永8年(1779年)12月18日享年52歳 で亡くなりました。死因は 破傷風 とされていますが、その背景には 殺人事件 が関係しています。

源内は 11月、自宅で口論の末に町人を斬りつけるという殺人事件を起こし、牢獄に投獄されました

獄中で負った傷の処置が十分でなかったために感染症を引き起こし、破傷風により死亡したと伝えられています。

では、なぜ源内は殺人事件を起こし、牢獄に入ることになったのでしょうか?

その経緯をたどると、意外な事実が見えてきます。

殺人事件の経緯

この事件の発端は、ある 大名の泉水工事 を巡る契約トラブルでした。

1.工事の請負をめぐる対立

ある大名が泉水工事を行うにあたり、平賀源内にも見積もりを依頼しました。すると、源内の見積額は既に決定していた施工者よりもはるかに安く、結果として施工者が変更される可能性が浮上しました。その後、源内と元の町人請負業者との間で協議が行われ、最終的には 両者が協力して工事を請け負うことで決着しました

2.和解の宴での悲劇

問題が解決した後、和解の証として 源内の自宅で酒宴 が開かれました。宴の席では、源内が設計や見積もりを説明し、町人もそれを納得したとされています。そして二人は酒を飲み明かし、泥酔してそのまま寝てしまいました。

3.書類紛失と口論

翌朝、源内が目を覚ますと、 昨夜見せたはずの設計書類が見当たりません。酔っていたこともあり、平賀源内は町人を疑い、激しく追及しました。しかし、町人は「取った覚えはない」と否定します。

それでも源内がしつこく詰め寄ると、町人は「もし俺が盗んで隠したのなら、そんなこと言うわけがないだろう!」と挑発的な発言をします。

4.怒りに駆られた源内が刃傷沙汰を起こす

この言葉に激昂した源内は 刀を抜き、町人に深手を負わせてしまいました。その後、町人は逃げましたが、源内は「いずれ町人が死ねば、自分も罪に問われるだろう」と悟り、身辺整理を始めました。

ところが、その直後 紛失したと思っていた書類が見つかった のです。源内は自責の念に駆られ、切腹を考えますが、弟子たちに止められました。そして 小伝馬町牢屋敷 に送られることとなりました。

 

このように、平賀源内の最期は 偶発的な殺人事件と、その後の獄中死 という、波乱に満ちたものでした。

平賀源内の才能が多くの分野で評価される一方で、晩年にはトラブルに巻き込まれ、悲劇的な最期を迎えたことがわかります…。

次のセクションでは、 獄中での源内の様子と破傷風による死因、そして埋葬の謎 について掘り下げていきます。

 

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平賀源内の最期と死因の謎

1779年11月、平賀源内は殺人事件を起こし、小伝馬町の牢屋敷に投獄 されました。

獄中での生活は過酷で、特に小伝馬町牢屋敷は衛生状態が極めて悪かったことで知られています。

事件後、源内は 切腹を考えましたが、門弟たちに止められ、そのまま幕府の裁きを待つことになります。

しかし、正式な判決が下る前に獄中で病を発症し、死亡しました。

この獄死の原因が、後世に大きな謎を残すことになります。

死因は破傷風?牢獄での死の真相

平賀源内の死因は「破傷風」とされています。

これは、事件の際に町人を斬りつけた際に自らも負傷し、その傷が適切に処置されなかったことが原因と考えられています。

破傷風は 傷口から破傷風菌が侵入し、強い痙攣や神経障害を引き起こす感染症 です。

当時の医療技術では治療が困難で、発症すれば ほぼ死に至る病 でした。

また、牢獄内の環境の悪さ も大きな要因とされています。

特に小伝馬町牢屋敷は、 湿気が多く不衛生な環境 であり、病気が発生しやすい場所でした。

源内が亡くなったのは 安永8年(1779年)12月18日、享年52歳。

正式な判決が出る前の獄死であったため、平賀源内の死には謎が多く、江戸時代の人々にも衝撃を与えました。

源内の墓と埋葬の謎

平賀源内の遺体は、橋場の総泉寺に埋葬された とされています。

しかし、遺体の処遇については諸説あり、

  • 遺族に引き渡されず、公式には埋葬されなかった説
  • 遺族が引き取って埋葬した説

の2つの説が存在します。

杉田玄白の墓碑銘 には、「身の回りのもののみを葬った」とあり、源内の遺体が墓にない可能性も示唆されています。

しかし、昭和3年(1928年)に総泉寺が板橋に移転する際、源内の墓を発掘したところ遺骨が発見され、実際に埋葬されていたと考えられるようになりました

現在、源内の墓は移転せず、元の総泉寺跡地(台東区橋場)に残されています

また、昭和6年には、旧高松藩主・松平頼寿 によって築地塀が整備されました。

 

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杉田玄白が記した「非常の人」平賀源内の墓碑銘

杉田玄白

 

平賀源内と杉田玄白は、江戸時代中期を代表する知識人として知られています。

二人は学問や文化を通じて深い交流を持ち、互いに刺激し合う関係でした。

特に、源内の多才さと独創性は、玄白に大きな影響を与えたと言われています。

「非常の人、非常のことを好み」の意味

源内の死後、杉田玄白は彼の墓碑銘として

「ああ、非常の人、非常のことを好み、行いはこれ非常、何ぞ非常に死するや」

との言葉を遺しました。

この「非常の人」とは、常識にとらわれず、独自の道を歩んだ源内の生き様を指しています。

平賀源内の奇抜な発明や多彩な才能、そして波乱に満ちた人生は、まさに「非常のこと」を好んだ人物像を表しています。

墓碑銘が当時刻まれなかった理由

興味深いことに、杉田玄白が記したこの墓碑銘は、源内の死後すぐには墓石に刻まれませんでした

当時、源内は殺人事件を起こした罪人として扱われており、その社会的評価は低迷していました。

そのため、平賀源内を称えるような碑文を公に刻むことは憚られたと考えられます。

実際、玄白の草稿は存在していたものの、石碑に刻まれることはありませんでした。

現在、この墓碑銘は源内の墓の近くにある「平賀源内先生墓域修築之碑」に刻まれています。

これは昭和5年(1930年)に建立されたもので、時を経てようやく源内の功績が再評価された結果と言えるでしょう。

 

このように、平賀源内の生涯と死、そして彼を取り巻く人々の思いは、時代を超えて語り継がれています。

平賀源内の波乱万丈な人生は、現代に生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれるかのようですね。


以上、波瀾万丈な生涯を送った平賀源内の最期についてご紹介しました。

2025年大河ドラマべらぼうでは、平賀源内の最期も描かれるのか気になりますね。

平賀源内の天才的な発明や文化への貢献はもちろん、その壮絶な人生と死の背景を知ることで、より深く平賀源内の人物像も理解できるかもしれません。

 

参考文献

  • 土井康弘著『本草学者平賀源内』(講談社選書メチエ)
  • 城福勇著『平賀源内の研究』(創元社刊)

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