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藤原隆家の家系図|道長との関係は?子孫は大物!皇族とのつながりも

2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原隆家が注目される人物の一人として描かれていますね。

藤原隆家は、平安時代中期の貴族であり、その波乱に満ちた人生や家系図について興味を持つ方も多いのではないでしょうか?

この記事では、

  • 藤原隆家の家系図や血筋についての解説
  • 隆家の子孫がどのような家系につながっていくのか

などを詳しくご紹介します!

 

藤原隆家の家系図|道長との関係は?

藤原隆家

藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、平安時代中期に活躍した「中関白家」(なかかんぱくけ)の一員であり、父・藤原道隆(ふじわらのみちたか)と正妻・高階貴子(たかしな たかこ)の間に生まれた四男です。

隆家には、兄の藤原伊周(これちか)や、姉の藤原定子(ていし/さだこ)がいました。

道長との関係は?

時の権力者として藤原氏の勢力を築いた人物・藤原道長は、隆家の父・道隆の弟なので、隆家にとって、道長は叔父にあたります。

家系図と家族のつながり

家系図をみてみましょう。

隆家の家系図

  • 父:藤原道隆
    中関白家の当主であり、摂政・関白を務めた人物。
  • 母:高階貴子
    高階氏の出身で、歌人としても知られている。
  • 兄:藤原伊周
    道長と対立し、権力争いを繰り広げた人物
  • 姉:藤原定子
    一条天皇の中宮であり、『枕草子』を記した清少納言が仕えていた人物。

藤原隆家はこのような家族関係の中で育ち、貴族社会において独自の地位を築きましたが、後の道長との関わりにより運命が大きく変わりました。

隆家の立場とその生い立ち

藤原隆家は、兄・伊周に次ぐ地位に位置し、父・道隆が権力を握っていた時代に出世を遂げました。若くして様々な官職を歴任し、権中納言に昇進しました。しかし、父の死後、権力の座を巡って叔父の道長と対立することになり、「長徳の変」では、伊周とともに花山法皇を襲撃する事件を起こし、左遷されることになります。

 

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藤原隆家の子孫たち|皇族とのつながりも

藤原隆家の子孫たちは、平安時代の後期から中世にかけて、さまざまな重要な役割を果たしていました。特に、隆家の血筋は天皇家や貴族の中でも影響を及ぼす存在として知られています。

 

子孫の活躍と天皇家との結びつき

藤原隆家の次男である藤原経輔(ふじわらのつねすけ)は、正二位大納言に昇り、「水無瀬大納言」と称されました。経輔の血統はその後、近衛家や他の名家と結びつき、以下のような形で天皇家とも深い関係を築いていきました。

  • 近衛家とのつながり
    経輔の5世孫である忠隆(ただたか)の娘が近衛家の祖である近衛基実の妻となり、その子供である近衛基通が誕生しました。この近衛家の系譜は、後に天皇家とも関わりを持つようになります。
  • 後鳥羽天皇との関係
    また、同じく経輔の5世孫である殖子は、後鳥羽天皇の母となり、その弟である坊門信清(ぼうもんのぶきよ)は内大臣にまで登り詰めています。

家系図で見る藤原隆家の血筋

隆家の血筋は、女系を通じて皇室や貴族社会に深く根を張り、さらには「水無瀬流」として後世にわたり、水無瀬家・町尻家などの名門を輩出しています。また、南北朝時代には、肥後国の豪族である菊池氏が隆家の後裔を自称しており、その影響力の大きさを物語っています。

このように、藤原隆家の子孫たちは、天皇家や有力貴族との関係を通じて、平安時代から中世にかけてさまざまな場面で活躍してきました。彼らの影響力は、天皇家との結びつきを強め、政治や社会に大きな足跡を残しました。

 

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家系図でみる藤原隆家の子孫たち|有名な人物も!

藤原隆家の子孫たちは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、歴史的に大きな役割を果たした人物が多くいます。

ここでは、隆家の子孫の家系図をみながら、特に有名な人物や歴史の転換点で活躍した子孫たちを紹介します。

隆家の子孫の家系図

隆家の家系図と子孫

有名な子孫たち

隆家の子孫として、次のような人物たちが挙げられます。

藤原信頼(ふじわらののぶより)

藤原隆家の6代目の子孫にあたる藤原信頼は、後白河天皇の側近として権勢を振るいました。

平治の乱では、源義朝と共にクーデターを起こし、当時の実力者である信西を倒しましたが、その後、平清盛に敗北し、最終的に処刑されました。

池禅尼(いけのぜんに)

隆家の血を引く人物の中でも特に有名なのが池禅尼です。

池禅尼は平清盛の継母であり、平治の乱では捕らえられた源頼朝の命を救うために必死に嘆願し、その助命に成功しました。この行動が源頼朝の後の活躍に繋がり、歴史の大きな転換点となりました。

西八条禅尼(にしはちじょうぜんに)

藤原隆家の血筋を引く人物の一人で、源実朝の正室(妻)として知られています。父である坊門信清は、隆家の5世孫で、内大臣まで昇進した有力公家です。

西八条禅尼は、実朝の正室として鎌倉幕府において重要な立場にありました。彼女は、実朝が暗殺された後、出家して「西八条禅尼」と呼ばれ、その後も京都で実朝の菩提を弔うために尽力。隆家の血筋を受け継ぎつつ、幕府と朝廷を結ぶ重要な役割を果たし、後の歴史に影響を与えた人物です。

皇室とのつながり

先ほどご紹介した殖子(後鳥羽天皇の母)のように、隆家の子孫の一部は、女系を通じて五摂家(ごせっけ)や九条家とつながりを持ち、そこから皇室にも血筋を伝えています。このため、後の皇室にも隆家の血が引き継がれているといわれています。

このように、藤原隆家の子孫たちは平安時代から中世にかけて、多くの歴史的な場面で活躍し、その影響力を広げていきました。

次は、具体的にどのような系譜が続いていったのか、詳しく見ていきましょう。

 

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藤原隆家の子孫の家系図|どのように広がっていったのか?

藤原隆家の血筋は、家系図で見ると興味深い展開を見せています。彼の子孫たちは、後世にわたって名門家系を形成し、広く影響を及ぼしました。

1. 水無瀬家を中心とした「五堂上家」

藤原隆家の次男・経輔(つねすけ)を祖とする水無瀬家(みなせけ)は、後に「五堂上家」と呼ばれる名家に発展しました。水無瀬家からは、以下の5つの家が分かれていきます。

  • 七条家(しちじょうけ)
  • 町尻家(まちがみけ)
  • 桜井家(さくらいけ)
  • 山井家(やまのいけ)
  • 水無瀬家(本家)

これらの家は、羽林家(うりんけ)という高い家格を持っており、江戸時代から明治維新にかけても続いていました。

2. 坊門家と七条院藤原殖子

隆家の子孫の中には、後鳥羽天皇の母である七条院藤原殖子がいます。

七条院藤原殖子の存在により、隆家の血筋は皇室とも深い関係を持つこととなりました。坊門家自体は室町時代に途絶えましたが、その影響は後世まで及びました。

3. 菊池氏の系譜

さらに、九州の豪族として知られる菊池氏は、南北朝時代に南朝側で大きな勢威を誇りました。菊池氏は隆家の子孫を自称しており、そのつながりは南朝の懐良親王を支えた功績によっても知られています。

 

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刀伊の入寇で活躍した藤原隆家

藤原隆家は、貴族でありながらも武勇に秀でた人物で、「さがな者(荒くれ者)」と称されましたね。

これは、気骨のある豪胆な性格から付けられた呼び名ですが、それと同時に隆家の人柄の良さが窺えます。具体的にみていきましょう。

 刀伊の入寇で活躍

隆家の最大の功績として知られるのは、「刀伊の入寇」への対応です。

1019年、九州に女真族(刀伊)が襲来した際、隆家は現地の豪族を指揮し、的確な戦略で敵を撃退しました。特に、高齢の武士を含む多くの部下たちから信頼を集め、彼の指揮のもとで結束し、共に戦い抜きました。その結果、日本を未曾有の危機から救い出したのです。

豪胆で寛容な性格

隆家の性格は、気さくで屈託のない一面を持っていました。『枕草子』には、彼が姉・定子に対して自慢話をするも清少納言に軽くからかわれたエピソードがあり、その場でも気を悪くせず笑って受け流したという逸話が記されています。これにより、権力におもねらず、飾らない性格の持ち主だったことがわかります。

教養と芸術の才能

一方で、隆家は詩や和歌に対する深い理解を持つ教養人でもありました。彼が詠んだ和歌は、勅撰和歌集である『後拾遺和歌集』や『新古今和歌集』に収録されており、漢詩も『本朝麗藻』に収められています。文化的な面でも優れた才能を発揮しており、単なる武勇に長けた人物ではなく、多彩な才能を持っていたことがわかります。

このように、藤原隆家は強い正義感と人間味溢れる性格を持ち、時代を超えても多くの人に愛される人物です。

 

以上、今回は藤原隆家の家系図や子孫についてお伝えしてきました。

まさか、隆家が皇族の祖先となっていたとはびっくりですね!NHK大河ドラマ『光る君へ』では、隆家が今後どのように描かれるか注目です。彼の気骨ある一面や、武勇と教養を兼ね備えた人物像がどのように表現されるのか、楽しみにご覧くださいね。

 

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